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『武士道』 要約:武士道のもたらしたものと行方 [読書]

さて、第10章まで来ました。

新渡戸稲造氏の晩年の不遇。
戦争に突入する日本を。戦後の日本。
ご夫妻は、天国で、どういう思いで見ていらっしゃっるのでしょうか。
気になるところです。

英文で、外国人に向けて書かれた書物を、
サムライがいなくなってしまった(?)現代の日本で、
ベストセラーとなって読まれているという事実。
「武士道」 の健在を、天国で喜んでおられるでしょうか。
とても、気になるところです。

引き続き書いているのは本の要点です。
詳しい感想については、次の記事にて書かせていただきます。

それでは、続きを。




第十章 ~何を学び、どう己を磨いたのか~
「武士道」 では、品性を高めることが必要とされました。
「人間を救うのは教義ではない。教義を正当化するものは人間である」 と、信じたからです。
武士道の訓育は、
剣術、柔術、弓術、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、歴史で構成されています。
(「歴史」 が入っているところが… 凄いですね!)

武士道が倹約を説いたのは、理財のためでなく、節制の訓練のためです。
「豪侈」 は、人格に影響を及ぼす 「最大の脅威」 と考えられました。
(人格、品位に関わる脅威ということですよね!)
金銭による執着から逃れることで、金銭に由来する悪徳から逃れようとしてしたのです。
このことで、日本の公務に携わる人びと(武士)が長い間堕落を免れていた事実を説明できます。
ですが、現代では、(新渡戸氏存命のころからなのですが)武士が衰退するのと時を同じくして、
急速に金権政治がはびこるようなって来たのです。

教える者が、
知性ではなく品性を、頭脳ではなくその心性を働きかける素材として用いるとき、
教師の職務は、ある程度まで聖職的な色彩をおびる。
武士道は、無償、無報酬で行われる実践のみを信じた。
精神的な価値に関わる仕事は、金銭で払われるべきではない。
金銭ではかれないほど貴いものであるからです。
逆境に屈すること無い、高貴な精神の威厳ある権化であった武士。
武士は、学問が目指すところの体現者であり、鍛錬に鍛錬を重ねる自制心の生きた見本でした。
この自制心こそが、サムライに必要とされることなのでした。

第十一章 ~人に勝ち、己に勝つ~
不屈の勇気と礼の教訓。
自分の悲しみ苦しみを外面に現して、他人の愉快や平穏をかき乱すことのないように、
礼(マナー)を、重んじるのが武士です。
(武士は食わねど高楊枝。顔で笑って心で泣いて… )
ときには、日本人の風習や習慣は、ときに冷酷に映るかもしれません。
ですが、日本人は、どんな民族にも負けないくらいに優しい感情を持った民族です。
誤解を受けるのは、礼儀を重んじる民族だからかも知れません。
自然に湧きあがってくる感情を抑えることは苦痛なのですから、
冷酷に感じるとすれば、モノゴトに感じ易い民族からかもしれません。
克己の訓練は時として度を超し、思いやりの心を完全に抑え、 素直な性格をゆがめ、途方もないものにかえることもできる。 偏屈を生んだり、偽善を生んだり、ときには情愛を鈍感にさせる。

第十二章 「切腹・仇討ち」 ~生きる勇気・死ぬ勇気~
「切腹」 という死の様式は、
日本人には、「もっと貴い行為」 や、「もっとも心を打つ悲しみの実例」 を連想させます。
腹という部分が、霊魂と愛情の宿るところであるという古い解剖学の信念に基いて、
「切腹」 は、嫌悪や嘲笑によって損なわれることがないと信じられています。
「切腹」 は、単なる自殺の手段ではありません。
自らの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法。
それが切腹です。
「仇討ち」 は、目上の人や恩義有る人のためになされる場合だけ正当化されました。
自分一個の損失や妻子に加えられた危害の場合は、ひたすら耐え忍ぶこととされました。

第十三章 「刀」 ~武士の魂~
危険な武器を持つことは、自尊心や責任感を抱かせます。
刀は、心中に抱く忠誠と名誉の象徴です。
刀に対する侮辱は、持ち主に対する侮辱とみなされました。
武人の究極の理想は平和です。
刀匠は、単なる鍛冶屋ではなく、神の思し召しを受ける工芸家でありました。
心魂気魄を打って錬鉄鍛冶は、宗教的行為であるとされています。

第十四章 ~女性の理想~
主君を護るのと同じくらいの熱意で、女性は、自分の身を守ることが理想でした。
男性が主君の奴隷では無かったように、妻は夫の奴隷ではなかったのです。
夫、家族、家のために、命をかけることは、自らの意思に基くものであり、「名誉」 とされたのです。
妻は夫のために自己を捨て、夫は主君のために自己を捨て、主君は天に従う。
武士道は、自己の個性を犠牲にしても、「高次の目的」 のために自己を役立たせました。
武士道の教え自体が徹底的な自己犠牲の精神であり、
その考え方は、男性だけでなく、女性にも要求されたのです。

第十五章 「大和魂」 ~日本人のこころ~
武士道の徳目は、日本人一般の道徳水準よりも抜きん出ているとされます。
ですから、武士道の道徳体系は、一般大衆の中から、追従する者を惹きつけていったのです。
どのような社会的身分も特権も、道徳が広まる力には抵抗できないのです。
「花は桜木、人は武士」 
武士道は、「エリート」 の栄光として登場し、国民全体の憧れとなり、その精神となったのです。
一般大衆にとっては、武士の道徳的高みにまで到達せずとも、
「大和魂」 で、島国の民族意識を表したといえるのです。

第十六章 ~武士道は蘇るか~
さて、怒涛のように押し寄せた西洋文化は日本古来の訓育の痕跡を消し去ったでしょうか。
外からの影響に容易く敗退するものならば、極めて貧弱な魂といえます。
維新回天の嵐の中で日本という船の舵取りをした偉大な指導者たちは、
武士道以外の道徳的教訓を知らない人々でした。
ヘンリー・ノーマン
「人類がかつて考え出したことの中で、もっとも厳しく、高尚で、厳密な名誉な掟が、国民の間で支配的な力を持つ」

外国貿易に全国を開放したとき、
生活のあらゆる場面に最新の改良を輸入したとき、
西洋の政治と学問を学び始めたとき、
日本人を動かした推進力は、物質資源の開発や富の増加ではなかったはずです。
ヨーロッパ人が日本に教えたのではなく、日本自らがヨーロッパのことを学んだのです。
ですから、「日本人ほど忠誠で愛国的な国民は存在しない」 と言われていたのです。

第十七章 ~武士道の遺産から学ぶもの~
「ヨーロッパの騎士道の運命」 と 「武士道の運命」
騎士道は、封建制度から引き離されてキリスト教に引き取られました。
日本では、武士道を養い続けようという宗教は現れていませんでしたから、
封建制度が去ってしまうと、武士道は、自力で進むべき方向を見い出さねばならなかったのです。
「儀礼的規範の衰退、生活の俗化は、文明の末期的症状のひとつ」
「民主主義はいかなる形式、いかなる特権集団も認めない」
「特権階級の利益のために考案された、純粋的に個人的な義務」 は、認められない。
「名誉」 によって補強された国家、「名誉国家」 は、屁理屈で武装し、
三百代言を並び立てる法律家や、御託を並べる政治屋の手にかかり衰退したのです。

悲しいかな武士道、悲しいかなサムライの誇り。
世間に迎えられた道徳は、「名将や名君が立ち去るがごとく」、その姿を消す運命なのです。

人は市民以上の、「人間」 に成長し、
生まれながらの権利である、「平和」 を売り渡し、
産業復興の前線から退いて、侵略主義の戦略に加わるような国民となり、
武士道に対抗するだけでなく、敵対する条件が備わった今日を考えると、
武士道にとっては、名誉有る葬送の準備を始めるべきときが来たのでした。
1871年。廃藩置県の詔勅が武士道の弔鐘の合図でした。
1876年。廃刀令は、「詭弁家、金儲け主義、計算高い連中」 の新時代に入ったことの証でした。

遺産を守り、損なわないこと。行動と諸関係に応用していくことを使命とする。
功利主義者や唯物論者の損得勘定の哲学は、魂を半分しか持たない屁理屈屋が好むところである。

守るべき確固とした教義や公式を持たないために、武士道は姿を消してしまうでしょう。
だが、けっして絶滅したわけではない。制度として滅んでも徳目としては生きている。
その精力と活力は、人生さまざまな面で、西洋諸国民の哲学の中に、文明世界の法の中に感じ取ることが出来る。
何世代か後に、武士道の習慣が葬り去られ、その名が忘れさられるときが来るとしても、いつの日か蘇生するに違いない。
日本という土壌に、いつの日か、「武士道」 の香りが、(桜の花のように、)ただよってくることだろう。

おしまい。





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