「戦車撃破王 シュトゥーカ大佐」 ハンス・ウルリッヒ・ルーデル [知らなかったこと]
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル をご存知でしょうか?
数々の信じられないようなエピソードを有している方です。
昨日、ある情報雑誌(機関紙?)で、興味を惹かれる記事を見つけました。
第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人で、歴史上最も多くの戦車を撃破した「戦車撃破王」 だそうです。
雑誌では、彼の変人・偏屈さが、上司や同僚に疎まれて来たことが書かれていました。
疎まれていたことから、適切な情報を与えられず、また、情報収集力にも乏しかったということでした。
度重なる冷遇や障害にも屈することなく、目的のために果敢に行動し、たくさんの勲章を授与され、
とうとう、「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」 を、ヒットラー自ら授与された男ということでした。
スターリンが演説で、「ソ連人民最大の敵」 と名指しで口撃。数億円の懸賞金がかけられていたとか、
何度死に掛けても、復活し、怪我が治癒しないのに飛行機に乗って爆撃に向かったとか。
部下として頼もしくもあり、目障りでもある存在をどう扱うのかという。
会社側からの協調性に欠けた人材の有効な活用の仕方(ノウハウ?)に関する記事でした。
それで、戦後のハンス・ウルリッヒ・ルーデル が気になりました。
彼は、いくつまで生きて、どうなったのか。
それは、雑誌では書かれていなかったからです。
それで、調べたのですが…
戦後の彼の活躍は、雑誌の記述以上に興味を惹かれるものでした。
偏屈ではあったかも知れませんが、なかなかの指導力と人間力で慕われていたようなのです。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル (Wikipedia)
さて、彼は、66歳で、心不全で亡くなったそうです。
葬儀の際には西ドイツ空軍のF-4戦闘機2機が追悼飛行。多くの退役軍人が参列。
ネオナチも押しかけ、ドイツ国歌や軍歌が唱され、ナチス式敬礼が行われるなど騒然となったようです。
大戦中の衝撃的なエピソードを羅列すると…
○上官との折り合いが悪く技量未熟だと決めつけられ、戦闘には参加させてもらえなかった。
○25才のときに、父の勧めで同郷の幼馴染の女性と結婚。翌年には息子が生まれる。
○出来る限り休暇を減らして出撃回数を増やすよう上司に嘆願し、その為に書類を偽造した。
(上官からの休暇命令に背いてまで出撃を重ねるようになった)
○スターリンから10万ルーブル(数億円)の賞金をかけられる。
○撃墜され太腿部を負傷、帰還後、ギプスをつけたまま任務に復帰。
○28歳のとき、アドルフ・ヒトラーより黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章。
(地上勤務を二度と命じないことを条件に受賞を了承する)
○ソ連軍の40mm対空砲弾が右脚に直撃し切断。以後義足を装着。
○不時着するも、ソ連軍の血眼の捜索にも関わらず捕まることなく、自力で帰還。
(老夫婦と意気投合、ベットで老夫婦と川の字で就寝)
○味方飛行場以外での着陸を禁ずるという命令を守って味方兵を救出。
(降下、滑走、救助、離陸という神業を行った)
○ドイツの無条件降伏を知る。部隊を率いてソ連軍の包囲網を脱出。アメリカ陸軍基地に着陸して投降。
大戦後の衝撃的なエピソードを羅列すると…
○戦争犯罪に該当するものもなかったため、1946年4月軍人病院からの退院をもって釈放される。
○ヴェストファーレン州のゲルスフェルトでドライバーをして働き始める。
○アルゼンチン政府による非公式の招待状を受けとる。
(アルプス山脈を越えスイス、イタリアへ。ローマで国際赤十字の発行する渡航文書を入手。入国)
(親友であるハーバート・バウアー少佐と、エルンスト・ニールマン大尉も同行)
○アルゼンチン航空機産業の顧問に任命される。コルドバの航空技術研究所で勤務しつつ、
独裁者フアン・ペロンとその妻のエバ、パラグアイの独裁者アルフレド・ストロエスネルの親友となった。
(両独裁者の間を取りもち、両国の経済開発計画にも関与している)
○アルゼンチン空軍士官学校で幹部候補生に操縦法や低空飛行による航空戦闘技法を教える。
○1955年、クーデターによってペロン政権が倒されたこともあり、パラグアイに移住。
○1965年、ルーデル49歳のときに28歳年下のドイツ人女性ウルスラ(当時21歳)と再婚。
(のちに息子クリストフをもうけた)
○1973年チリで軍部のクーデター。チリにあるドイツ人入植地「コロニア・ディグニダード」に移住。
その他…
○義足でありながら、テニスや水泳、スキーの競技会などで好成績を収めたスポーツ愛好家であった。
○趣味として登山を嗜み、南米に於いてアンデス山脈のほぼ全てを制覇している。
○極右政党DRP (ドイツ帝国党)の幹部でもあり、1953年にはドイツ連邦議会選挙にも出馬している。
○彼の軍人互助会組織 "カメラーデン・ヴェルク" は、
ドイツで獄中にあったルドルフ・ヘスやカール・デーニッツに援助物資を送り、弁護費用を負担した。
○秘密裏にヨーゼフ・メンゲレらナチス戦犯の国外逃亡を手助けしている。
○アメリカのフェアチャイルド社はA-10サンダーボルトII攻撃機を設計する際、顧問に迎えている。
(A-10の設計思想の一部はルーデルの助言に基づくものだと言われている)
○ルーデル自身はナチ党員ではなかった。
○ヒトラー暗殺計画を非難し、先の大戦はドイツの生存権の為の戦争だったと擁護している。
○1976年、ドイツ連邦軍の集会に招かれ講演。
その内容が物議を醸し、招いた将軍二人が退役に追い込まれた(ルーデルスキャンダル)。
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味方にすれば、こんなに心強い人はいないと思います。
ということは、敵にすれば、こんなにイヤな奴はいないと思います。
雑誌では、有能ゆえに嫉妬で疎まれると書いてありました。
正直(人間関係で誤魔化しや媚がない)ゆえに、上司にとっては可愛げがないと思いますが、
部下として、これほど頼もしい者もいないのではないかと思います。上司の力量次第かも。
堂々と正論を述べ、自分に恥じることがないところはアッパレです。ブレないところも良いです。
人殺しであることを問題だというなら、戦争を惹き起こした原因の究明こそが必要になるでしょう。
国のために戦った人を非難する自国民は卑怯者だと思います。
被害を被った国は、相手国を非難すべきであって、個人を批判することは筋違いです。
信念を貫くのは、意思の強さと的確な情報収集力だと思います。
人の心を打つ、魅力がある人間だったことが調べて分かりました。
雑誌の記事だけでは、分からなかったことです。
(雑誌に求められていたこととは別ですから当然ですが…)
興味を持って調べてみることは、面白いことだと思いました。
数々の信じられないようなエピソードを有している方です。
昨日、ある情報雑誌(機関紙?)で、興味を惹かれる記事を見つけました。
第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人で、歴史上最も多くの戦車を撃破した「戦車撃破王」 だそうです。
雑誌では、彼の変人・偏屈さが、上司や同僚に疎まれて来たことが書かれていました。
疎まれていたことから、適切な情報を与えられず、また、情報収集力にも乏しかったということでした。
度重なる冷遇や障害にも屈することなく、目的のために果敢に行動し、たくさんの勲章を授与され、
とうとう、「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」 を、ヒットラー自ら授与された男ということでした。
スターリンが演説で、「ソ連人民最大の敵」 と名指しで口撃。数億円の懸賞金がかけられていたとか、
何度死に掛けても、復活し、怪我が治癒しないのに飛行機に乗って爆撃に向かったとか。
部下として頼もしくもあり、目障りでもある存在をどう扱うのかという。
会社側からの協調性に欠けた人材の有効な活用の仕方(ノウハウ?)に関する記事でした。
それで、戦後のハンス・ウルリッヒ・ルーデル が気になりました。
彼は、いくつまで生きて、どうなったのか。
それは、雑誌では書かれていなかったからです。
それで、調べたのですが…
戦後の彼の活躍は、雑誌の記述以上に興味を惹かれるものでした。
偏屈ではあったかも知れませんが、なかなかの指導力と人間力で慕われていたようなのです。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル (Wikipedia)
さて、彼は、66歳で、心不全で亡くなったそうです。
葬儀の際には西ドイツ空軍のF-4戦闘機2機が追悼飛行。多くの退役軍人が参列。
ネオナチも押しかけ、ドイツ国歌や軍歌が唱され、ナチス式敬礼が行われるなど騒然となったようです。
大戦中の衝撃的なエピソードを羅列すると…
○上官との折り合いが悪く技量未熟だと決めつけられ、戦闘には参加させてもらえなかった。
○25才のときに、父の勧めで同郷の幼馴染の女性と結婚。翌年には息子が生まれる。
○出来る限り休暇を減らして出撃回数を増やすよう上司に嘆願し、その為に書類を偽造した。
(上官からの休暇命令に背いてまで出撃を重ねるようになった)
○スターリンから10万ルーブル(数億円)の賞金をかけられる。
○撃墜され太腿部を負傷、帰還後、ギプスをつけたまま任務に復帰。
○28歳のとき、アドルフ・ヒトラーより黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章。
(地上勤務を二度と命じないことを条件に受賞を了承する)
○ソ連軍の40mm対空砲弾が右脚に直撃し切断。以後義足を装着。
○不時着するも、ソ連軍の血眼の捜索にも関わらず捕まることなく、自力で帰還。
(老夫婦と意気投合、ベットで老夫婦と川の字で就寝)
○味方飛行場以外での着陸を禁ずるという命令を守って味方兵を救出。
(降下、滑走、救助、離陸という神業を行った)
○ドイツの無条件降伏を知る。部隊を率いてソ連軍の包囲網を脱出。アメリカ陸軍基地に着陸して投降。
大戦後の衝撃的なエピソードを羅列すると…
○戦争犯罪に該当するものもなかったため、1946年4月軍人病院からの退院をもって釈放される。
○ヴェストファーレン州のゲルスフェルトでドライバーをして働き始める。
○アルゼンチン政府による非公式の招待状を受けとる。
(アルプス山脈を越えスイス、イタリアへ。ローマで国際赤十字の発行する渡航文書を入手。入国)
(親友であるハーバート・バウアー少佐と、エルンスト・ニールマン大尉も同行)
○アルゼンチン航空機産業の顧問に任命される。コルドバの航空技術研究所で勤務しつつ、
独裁者フアン・ペロンとその妻のエバ、パラグアイの独裁者アルフレド・ストロエスネルの親友となった。
(両独裁者の間を取りもち、両国の経済開発計画にも関与している)
○アルゼンチン空軍士官学校で幹部候補生に操縦法や低空飛行による航空戦闘技法を教える。
○1955年、クーデターによってペロン政権が倒されたこともあり、パラグアイに移住。
○1965年、ルーデル49歳のときに28歳年下のドイツ人女性ウルスラ(当時21歳)と再婚。
(のちに息子クリストフをもうけた)
○1973年チリで軍部のクーデター。チリにあるドイツ人入植地「コロニア・ディグニダード」に移住。
その他…
○義足でありながら、テニスや水泳、スキーの競技会などで好成績を収めたスポーツ愛好家であった。
○趣味として登山を嗜み、南米に於いてアンデス山脈のほぼ全てを制覇している。
○極右政党DRP (ドイツ帝国党)の幹部でもあり、1953年にはドイツ連邦議会選挙にも出馬している。
○彼の軍人互助会組織 "カメラーデン・ヴェルク" は、
ドイツで獄中にあったルドルフ・ヘスやカール・デーニッツに援助物資を送り、弁護費用を負担した。
○秘密裏にヨーゼフ・メンゲレらナチス戦犯の国外逃亡を手助けしている。
○アメリカのフェアチャイルド社はA-10サンダーボルトII攻撃機を設計する際、顧問に迎えている。
(A-10の設計思想の一部はルーデルの助言に基づくものだと言われている)
○ルーデル自身はナチ党員ではなかった。
○ヒトラー暗殺計画を非難し、先の大戦はドイツの生存権の為の戦争だったと擁護している。
○1976年、ドイツ連邦軍の集会に招かれ講演。
その内容が物議を醸し、招いた将軍二人が退役に追い込まれた(ルーデルスキャンダル)。
------------------------------------------------------------
味方にすれば、こんなに心強い人はいないと思います。
ということは、敵にすれば、こんなにイヤな奴はいないと思います。
雑誌では、有能ゆえに嫉妬で疎まれると書いてありました。
正直(人間関係で誤魔化しや媚がない)ゆえに、上司にとっては可愛げがないと思いますが、
部下として、これほど頼もしい者もいないのではないかと思います。上司の力量次第かも。
堂々と正論を述べ、自分に恥じることがないところはアッパレです。ブレないところも良いです。
人殺しであることを問題だというなら、戦争を惹き起こした原因の究明こそが必要になるでしょう。
国のために戦った人を非難する自国民は卑怯者だと思います。
被害を被った国は、相手国を非難すべきであって、個人を批判することは筋違いです。
信念を貫くのは、意思の強さと的確な情報収集力だと思います。
人の心を打つ、魅力がある人間だったことが調べて分かりました。
雑誌の記事だけでは、分からなかったことです。
(雑誌に求められていたこととは別ですから当然ですが…)
興味を持って調べてみることは、面白いことだと思いました。
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ルーデル大佐も確かに凄いが、大日本帝国陸軍にもこんな兵隊がいました。
長野の第五十聯隊の鼻摘み者でありながら仲間等とともにサイパン島が陥落して組織的抵抗が終わっても、
なお山岳地帯に立て篭もり、「一人百殺」を誓って掃討する米兵達を相手に
昭和19年11月16日、仲間を救うために自ら囮になって壮絶な最期を遂げた、
『サイパンの虎』こと堀内今朝松一等兵を忘れてはなりません。
以下は「タッポーチョ『敵ながら天晴れ』」からの引用です。
「馬鹿!」彼ら、堀内[一等兵]の怒鳴る声が聞こえた。
「こっちだ。早くしろ!」刺青の無法者は、腕に持った機関銃を彼らに向けて、ジャングルの中に入るように身振りで示した。…
堀内は、自分たちの前進を隠そうとはしなかった。彼は、自分たちが立てる雑音に頓着せず、可能な 限りの速さで、もつれた蔓草の中を突き進んだ。
天性の戦士である元ヤクザは、敵がすべての注意を道で発見した日本兵に向けている間に、敵の側面に進んだのである。
突然、彼は、ジャングルの中を腹ばいになって、日本兵のいる道に向かって進んで行くアメリカ兵たちを見た。
一人も、彼の方を見ない。彼の機関銃が火を噴いた。そして、彼は、自分の軽機関銃の弾丸が撃ち込まれた死体の数を数えた。
…後ろについてきた日本兵たちが、堀内のところへ着いたときには、生きているアメリカ兵は一人もいなかった。
彼らは、堀内が「45」と言ってから、唸るように「行こうぜ」と言うのを聞いた。
by 敢闘軍 (2010-05-30 20:47)
敢闘軍さん、こんばんは。
コメントをありがとうございます。
>堀内今朝松一等兵
存じませんでした。
お教えいただきありがとうございます。
素晴らしい日本人は多いと思いますから、機会さえあれば、存分に発揮出来る日本人は多いのではないでしょうか。
けれど、多くの日本人は眠らされている気がしています。
自虐史観や人権や主権という子守唄で…
多くの先人が何を護ろうとしたのか。
我々にもその遺志を護る努めがあると考えています。
知らないことばかりです。
ならば、知らねばならないことがたくさんあります。
堀内今朝松一等兵には遠く及びませんが、出来ることをするしかないと考えています。
頑張りましょう。(^o^)丿
by 元気 (2010-05-31 23:30)