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<極秘> 「帝国議会に於ける憲法改正案審議経過」 5/18 [記録]

第90議会議決後に於ける帝国憲法改正案枢密院審査委員会記録 1946年10月19日

<標準画像 005/18>
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/129_1/129_1_005r.html
p5.jpg
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  方法により小委員会を通じて議会の修正として取り扱った
  以上を前置きとして以下目録風に説明する。

前文。 修正により主権在民が明記されたが、この修正は全体
  を説明する場合の味合ひとしては、意味があるが実質的には
  原案と変りないと考えている。
  この修正の経過には、外来的の影響が働きまはりくどい方法
  で修正を希望して来たのである。

第一章。 第一案に主権在国民と明記することは社会党の主張で
  あったが他の人々は前文で明かであるとした。しかし、外来の要求があ
  り前文を受けて引用する意味に於て第一条にも明記することとなった

  「国務」 を 「国事に関する行為」 と改めたのも外来的な修正である。
  「国務」 と云ふ語は何となくある方面に対する刺激的な意味がある
  様に感ぜられたらしく、更にせまい意味を来す語を用いる様にと云

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  云ふ希望であった。  第六條二項の修正は権の分立の理論に立ち、又、行政権の長が勅
  任される以上は、司法権の長も勅任とするのが当然と云ふ見解
  であった。

  第七條については、更に天皇の権能を少くせよと云ふ主張が衆議院
  には強く、これに反して貴族院においては特に外交上の権能につい
  て広くせよとの主張が強かった。

第二章。 これは、戦争放棄の精神に一層、自主性、積極性を持たせようとの趣旨である。

第三章。 については多くの問題が生じたが、最後には少くなった。

一〇條は、当初は不必要と考えていたが、憲法の体裁をととのへる必要か
      ら挿入されたものである。

十七條は、日本に於て機会があればいつかは実現さるべきものと考えていた。

二五条は、一つの建前に影響をもつ修正とも考えられる。この憲法は将来の方針
      をイデオロギー的に開明すると云ふ建前ではなかった。
      法律の内容よりは、いく分理想的な色彩をもつが、かような方針が望ま
      
             (標準画像 006/18より)  (しいと認定されたものと考えている)
  

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この修正の経過には、外来的の影響が働きまはりくどい方法で修正を希望して来たのである。

外来の要求があり前文を受けて引用する意味に於て第一条にも明記することとなった。

「国務」 を 「国事に関する行為」 と改めたのも外来的な修正である。

「国務」 と云ふ語は何となくある方面に対する刺激的な意味がある様に感ぜられたらしく、
更にせまい意味を来す語を用いる様にと云ふ希望であった。

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○一〇條は、当初は不必要と考えていたが、憲法の体裁をととのへる必要から挿入されたものである。

○十七條は、日本に於て機会があればいつかは実現さるべきものと考えていた。

○二五条は、一つの建前に影響をもつ修正とも考えられる。

○この憲法は将来の方針をイデオロギー的に開明すると云ふ建前ではなかった。

○法律の内容よりは、いく分理想的な色彩をもつが、
  かような方針が望ましいと認定されたものと考えている。

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憲法は、その国の文化や伝統を踏まえて、作られるものであるはずです。
が、ここには、文化や伝統が論じられた跡はありません。

ここには、憲法に、外来の考えを受け入れたことが記されています。
建前やイデオロギー、理想的な色彩と、(外国の)望ましい方針を配慮しての憲法です。
それが、我が国の憲法(日本国憲法)の正体でもあります。

占領下での新憲法制定。
大日本帝国憲法を改正の限界を超えての修正であることの可能性、その是非について。

公職追放という生活の基盤を揺るがせかねない危険と背中合わせでの改正論議。

当時の人々が時代の流れの中で精一杯生きた(対処した)ことが分かります。

けれども、日本の行く末が(外来の意向によって)決められていったこと、
文化や伝統よりも外来の意向と、外来の意向に添う人々によって進められていったことは、
紛れもない事実であると思います。

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【清水澄】
日本の憲法・行政法学者。学位は、法学博士。帝国学士院会員。枢密院議長。
宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。
行政裁判所長官、枢密院顧問官・副議長を経て、敗戦後、昭和21年6月13日最後の枢密院議長に任ぜられる

枢密院が廃止され、昭和22年(1947年)5月3日に日本国憲法が施行された後の同年9月25日、
日本の国体の危機を憂い、熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺を遂げた。

遺言に当たる「自決ノ辞」には、

新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ

元枢密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法実施ノ日認ム

追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ

と記し、大日本帝国憲法に殉じ、自殺をすることと、その自殺が中国の戦国時代の楚国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自決した故事に倣ったことが記されている。そして、公人としての最後の責任を全うするために、自らの想いとは別に最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したのである。

金沢市の石川護國神社には、「清水澄博士顕彰碑」がある。

[猫]生きていて欲しかった、生き抜いて欲しかったと思います。



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