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<極秘> 「帝国議会に於ける憲法改正案審議経過」 8/18 [記録]

第90議会議決後に於ける帝国憲法改正案枢密院審査委員会記録 1946年10月19日

<標準画像 008/18>
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/129_1/129_1_008r.html
p8.jpg
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   第六六條には 「文民」 でなければならないとの規定が加へられたがこの
    「文民」 とは現在に於ては 武官の職歴を行しない人と解している
   が将来の経過に於てある変化が生ずるのではないか、と考えている。

 以上修正箇所についてご説明したが、これに対する反対者も両院
 に若干づつあったけれども、要するにそれは衆議院に於ては 「行き足
 りない」 との立場であり貴族院に於ては 「行きすぎ」 であるとの立
 場であったと云へよう。

    --------------

潮委員長  各章毎に質疑あらばながいたい。
前文。
林(頼)   「この憲法に反する一切の法令…」 が 「この原理に反する一切の憲法…」
       となった理由如何。

金森    原案は改正憲法を標準とした。修正は自然法原理的
       なものを標準として、これを尊重すると云ふ考へである。
       法律論にうつして考えると、憲法が最高原理でなければな
       らない。修正は、正につくらんとする憲法自身の運命をも
       抑制することとなる。 故にこれは一つのレトリックであると考
       へている。

林     すると、「一切の憲法」 とは、将来の憲法のみか

金森    両方を含むと思ふ。

林     「主権が国民に存する」 と明定されて主権の所在がはっきりした。
      この前の本院の検査の際は、松本国務大臣は主権が国民に
      あるとは政治論であり、法律論としては主権は法人たる国家に
      あるとのことだった。

                        <標準画像 009/18> より補足

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<前文より>
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する


(金森)
原案は改正憲法を標準とした。
修正は自然法原理的なものを標準として、これを尊重すると云ふ考へである。
法律論にうつして考えると、憲法が最高原理でなければならない。
修正は、正につくらんとする憲法自身の運命をも抑制することとなる。
故にこれは一つのレトリックであると考へている。

(林) 「一切の憲法」 とは、将来の憲法のみか

(金森) 両方を含むと思ふ。

(林)
「主権が国民に存する」 と明定されて主権の所在がはっきりした。
この前の本院の検査の際は、松本国務大臣は主権が国民にあるとは政治論であり、
法律論としては主権は法人たる国家にあるとのことだった。

   ------------------------------------------------------------

松本国務大臣 とは、松本烝治氏のことです。
この部分では、幣原内閣の下で発足した憲法問題調査委員会(委員長:松本烝治)の、
「憲法改正要綱(甲案)」 との違いを 「主権」の捉え方の観点から論議しています。

『<極秘> 「帝国議会に於ける憲法改正案審議経過」 3/18』 でも記述していますが、
松本国務大臣は、幣原内閣国務大臣の下で、憲法担当として憲法改正に携わっており、
この、「第90議会議決後に於ける帝国憲法改正案枢密院審査委員会記録 1946年10月19日」
記録される前月、公職追放されています。

代わって、憲法改正に活躍したのが芦田均氏(第47代 内閣総理大臣)です。
1946年、6月29日、衆議院、帝国憲法改正案委員長に選任されています。
第1次吉田内閣時代に、衆院憲法改正特別委員長として大いに活躍したことは特筆に価するものだった。1947年(昭和22年)には自由党を離党して民主党を創設し自ら総裁に就任した。
晩年は不遇だったが、終戦直後の活躍には目を瞠るものがあった。

終戦とともに、筋金入りのリベラリスト・議会政治家である芦田が活躍できる時代が始まった。
前述した終戦直後の芦田の大活躍は、芦田時代の到来を予感させた。しかし、芦田には不運がつきまとっていた。
西尾献金問題と昭和電工疑獄事件(昭電事件)では、占領軍内部の勢力争いに日本の政治が翻弄された。民政局は社会・民主中道政権を好み、バックアップした。しかし、GHQ内の反民政局派であるG2の力が強まり、民政局派対G2派の権力争いが激化し、昭電事件がこの抗争に利用されたのである。民政局と関係の良かった芦田はこの抗争の犠牲になった。芦田内閣崩壊後の山崎首班工作事件(狙いは吉田首班阻止)は民政局側の最後の反撃だったが、これは成功しなかった。
国が占領下に置かれていたがゆえの政局混乱であった。
また、西尾献金問題が派生して政党創設問題が浮上して、芦田自身も証人喚問をされた。



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