SSブログ
小野田さんの本 ブログトップ

『私は戦友になれたかしら』 小野田 町枝 [小野田さんの本]

P1050856.JPG
内容(「MARC」データベースより)
あなたの空白を埋めるためなら、自分の命を捨ててもいい…。フィリピンのルバング島で30年間戦い続けた帰還兵小野田寛郎と結婚して27年。2人の出会いからブラジルでの生活、命をかけた牧場の開拓などを語る。

小野田 町枝 (「BOOK著者紹介情報」より)
昭和12年、茨城県生まれ。財団法人小野田自然塾理事。佐原女子高等学校卒。上智大学で聴講生として心理学を学ぶ。上場会社事務職を経て独立、損害保険会社代理店を経営。同51年、小野田寛郎と結婚、ブラジルに移住。現在はブラジルと日本を往復し、ブラジルで牧場経営、日本では青少年の健全育成のため、小野田自然塾を夫と共に創設、活動を続けている

 [本]  ------------------------------------------------------------  [本]

小野田氏といえば、戦後も1974年まで、ルバング島で戦っていた人です。
私が小野田氏を初めて見たのは高校生のとき。テレビでの記者会見でした。
着古した軍服で口の端に唾を溜めて毅然と話す姿。
敬礼も軍服も言葉も仕草も… あまりに日本の発展とは不釣合いでした。
30年もの時を経ても戦争の犠牲者が居たこと。
小野田氏を戦争の被害者と捉え、戦争への嫌悪を深めたことを覚えています。
小野田氏も帰国後は、戦中の日本や、日本のした戦争に対して嫌悪感を抱いていたと考えていました。
帰国後は、豊かな日本に感謝しながら、幸せに暮らしたと考えていました。
逆浦島太郎のような想像をして、日本に戻れて良かったと、単純に考えていました。
ジャングルで何を食べていたのか…
ジャングルで何をしていたのか…
漠然とした興味は有っても、調べるほどの意欲もなく、次第にその存在も忘れていました。
それから30年以上の時を経たことになります。[ぴかぴか(新しい)]

今年、初めて靖国神社に参拝しました。(6月、靖国神社祟敬奉賛会の会員にもなりました)
遊就館にも初めて入館しました。そこでは、長い時間を過ごすことが出来ました。
なんだか、先人たちが我々戦後生まれに託した思い(希望)を受け取ったような気持ちになりました。
色々なこと、知らないで済ませていたことを知りたいと思いました。
やっと、素直に、日本を知るスタート台に立ったような気持ちになりました。

靖国神社から、誰でも送料の負担だけで送っていただける、
『講演、シンポジウム、勉強会、青少年セミナーの記録集』 を送っていただきました。
平成19年度の記録集の最初の講演が、小野田町枝さんでした。
小野田さんの奥様です。
30年以上の時を経て… 初めて、知ったのです。
小野田氏がどんな想いでジャングルで過ごし、日本でどんな思いをし、ブラジルに渡ったのか。
それから、今、小野田夫妻が、日本のためにしていることを。

『私は戦友になれたかしら』 は、私が最初に買った小野田さんの本です。
女性の目線で書かれている、とても読みやすい本です。

扉0001.JPG扉0002.JPG

小野田さんがジャングルで一番辛かったことは、
食べ物が無いことでも、雨が続くことでも、横になって眠れないことでもありませんでした。
戦友を亡くしたことが一番辛いことだったそうです。
寝食を共にし、命を賭けて守り守られた戦友です。
町枝さんは、小野田氏にとって、戦友になれたかと問いかけています。

~ あなたに会えて良かった。でも私は本当にあなたの戦友になれたかしら? ~

町枝さんが、最初に小野田氏を見たのは、私と同じテレビでした。
そのとき、町枝さんは、30代の後半。バリバリのキャリア・ウーマン。経営者だったそうです。
町枝さんは、小野田氏の風貌と言葉に雷に打たれたような衝撃を感じたそうです。
こんな素晴らしい男性が、日本人が居たのだと…
そして、それが小野田氏の妻になると決めた瞬間なのだそうです。[ぴかぴか(新しい)]

妻となるまで。妻となってから。
本には、共に色々なものと戦って、苦難を乗り越えた様子が書かれています。
そして、今も、日本に対して出来ることを精力的に活動されています。

小野田氏は、今、北陸大学のオープンキャンパスで、「生きる」 という講座を持たれているそうです。
本の最後の方で、印象的なシーンを町枝さんは書かれています。
学生が小野田氏に、何が一番不幸で何が一番幸福だったかを質問したシーンです。
その会話を本の記述のまま、転記したいと思います。

僕は君たちと違って、国家存亡を賭けた先の戦争の時、君たちと同じ年齢でした。
戦争の是非はここでは論じませんが、ひとたび戦争となれば双方の国の若者が先頭に立って戦わねばなりません。
過酷な状況下の戦場で熾烈な戦闘をせねばならないのですから、高齢者には耐えられないからです。
国のために命をかける、と言えば君たちには理解しがたいかもしれませんが、
僕は国家、民族のために戦った。国は私たちの集合体なのです。
ひいては自分の家族のために戦うのと同じ意味なのです。

僕は青春時代を力一杯戦って過ごしたことを幸せだと思っている。
不幸だと思ったことはないと言うと、負け惜しみだと批評する人もいますが、そうではない。
自分が正しいと信じて行ったことが達成されたからです。
そのために心身ともに鍛錬され、自分の限度を知り自信も得ました。
だから、53歳からブラジルに渡って牧場も開拓出来たのです。

私たちは生まれてくる国も、時代も、親も、選ぶことは出来ません。
その現実から逃避する術は自殺するより他に道はないでしょう。
死を好む人はいないはず、生まれてきたからには生きなければならないのです。
それには目的と信念がなければ困難を打開することはできません。
僕はその時、その場を工夫して生き抜いてきた。
君たちはこれから50年、60年と生きなければならないのですからよく考えて欲しい。

質問から離れた話をしてきましたが、賢明な君たちには、僕の 『幸』 と 『不幸』 はもう想像がついたと思います。
目的を達成したことが最大の 『幸』 で、戦闘のために失った戦友二人を彼らの帰りを待つ家庭に返せなかったことが上級者として最大の 『不幸』 でした。

   --------------------------------------

町枝さんは、一番苦しかったことは何ですかと聞かれると、経済的に苦しかったことと答えるそうです。
しかし、ブラジル開拓は、苦しいことの連続であり、
今があるのは、闘争心と情熱で何事にもあたり、多くの人に出会い、支えてもらったお陰だと。
ことあるごとに泣いたが、過ぎ去った思い出と経験は心の宝物になったと。
そんな覚悟と感謝の言葉を書かれています。

[猫]そんな潔い人間に、私もなりたいと思いました。

   --------------------------------------

onoda.JPG

   ------------------------------------------------------------ 資料 ---

小野田寛郎 Wikより。
上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補学生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され卒業ではなく退校命令を受領する。
------------------------------------------------------------

軍歴
1944年12月、遊撃戦の指導の任を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた[1]。また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後もアメリカと戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された。フィリピンのルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍は小野田を相手にせず、米軍上陸後は簡単に撃破されて山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都マニラの位置するマニラ湾の出入り口にあり、この付近ではマニラを母港とする米軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。
------------------------------------------------------------

日本敗戦後
1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、部下(赤津勇一:1949年9月逃亡1950年6月投降、島田庄一:1954年5月7日戦死、小塚金七:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。
日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1949年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。
ゲリラ戦での主な食料は、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生する椰子の実を拾い食いしていた。
これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率よく補給していた。
持久戦法をたてて米軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダー基地への襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。
使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀などであり、そのほか放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を改造して使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせるなど、多くの『戦果』を上げている。
地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。
30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在フィリピン米軍の兵士を30人以上殺傷した。
手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、米軍倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。
また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。
捜索隊はおそらく現在の日本の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると信じて、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、東京オリンピック等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事を実感し、それがためにかえって日本が敗戦したなどとは全く信じられなかったという。
士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権が在ると考えた。
また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。
また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、ベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。
このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、30年間も戦い続ける結果となった。
だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独に対して疲労を深めていった。
1974年に、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。
鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。
3月9日にかつての上司である谷口義美元少佐から文語文による山下奉文大将名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。
  --------
翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。実際終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。小野田は終戦を信じられず、戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。マルコス大統領も出席して投降式を行い、武装解除されたのである。
こうして小野田にとっての戦争が終わり、3月12日に帰国を果たした。なお、小野田は足跡を残す事を恐れて暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。
------------------------------------------------------------

帰国後
小野田に対し、政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。天皇との会見も断り(自身が勝手に潜伏していたので、陛下は声の掛け様が無いだろうと判断)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓へ行っている。
------------------------------------------------------------

ブラジル移住
2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、大きく変わった日本社会に馴染めなかった。帰国の半年後に次兄の居るブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。その後、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めたとして『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている。バブル景気の頃には日本での活動の拠点として購入した東京のマンションが暴騰し、ブラジルで築いた財産以上の資産価値になってしまい、日本経済の行く末についても危機感を持ったと伝えられる。2004年12月17日、日本人として初めてサントス・ドゥモン勲章を、更に2005年11月3日、藍綬褒章を受章した。

慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している。


nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:
小野田さんの本 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。