SSブログ

<極秘> 「帝国議会に於ける憲法改正案審議経過」 2/18 [記録]

第90議会議決後に於ける帝国憲法改正案枢密院審査委員会記録 1946年10月19日

<標準画像 002/18> http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/129_1/129_1_002r.html

p2.jpg
   ------------------------------------------------------------

第一回審査委員会   (一〇.一九)

先ず吉田総理大臣より簡単な挨拶を行ひ、議会による修正の
箇所及びこれに対する政府の見解は金森国務大臣その他より
説明せしめる旨を述ぶ。

金森国務大臣の説明にあたり、審査委員会に配布したる説明
書左の如し。

    --------------

帝国議会に於ける憲法改正案審議経過

(一) 憲法改正案は今回若干の修正を加えられて帝国議会の議決を経た。

(二) 先ず衆議院に於いては六月二十三日本会議に上程し、七月一日から委員会の審議に移り、
    前後二十一回の委員会の後、同月二十四日の本会議に於いて殆ど全員一致を以ってこれを
    可決した。
    衆議院に於ける主なる修正は左の通りである。

(1) 前文
    主権の所在その他に関する字句の修正

(2) 第一章  天皇

   (1) 第一条中 「主権の存する国民」 云々の修正

   (2) 天皇は内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する旨の規定の挿入

   ------------------------------------------------------------

吉田総理大臣
官僚、外務省出身。
東久邇宮内閣(1945年8月17日~10月9日)や幣原内閣(1945年10月9日~1946年5月22日)で、
外務大臣を務めたのち、第45代内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日〜1947年5月24日、
および、1948年10月15日〜1954年12月10日まで在任した。
吉田学校
吉田茂の独自体制を支えるために集められた国会議員のグループを指す。
吉田と同じ官僚出身が多数を占めていた。
外交官から突如、自由党の総裁に就任することになった吉田には、戦後改革を遂行する上で、自分の手足となる忠実な部下が少なかった。
更に、吉田は党人派の議員たちが戦前軍部に屈したことや党人派の行政手腕や政策立案能力などに対し、強い不信感を抱いていた。
こういった理由から、吉田は自身と同じ高級官僚を政界に引き入れ、自派の勢力を充実させるとともに、戦後の混乱期を収拾できる行政能力を高めようと努めた。
吉田は1949年、第24回衆議院議員総選挙に公職追放された旧勢力の公認候補の代わりとして、各省庁から有能な官僚を送り込み、結果総選挙に圧勝した。
吉田はこれら吉田学校生らを強いリーダーシップで率い、戦後日本の政治体制の基礎をかためた。
マッカーサーとの関係
マッカーサーがトルーマン大統領によって解任され日本を去るまで親密であった。吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。
東方会議をリードし治安維持法に死刑条項を設けたため、公職追放の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたという。
・憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。
・単独講和に反対していた松野鶴平に、「このご時世、番犬くらい飼っているだろう?」と切り出し、「それがどうした」と返されると、「犬とえさ代は向こう持ちなんだよ」。

●第43代内閣総理大臣(1945年8月17日~10月9日) 東久邇宮稔彦王
史上唯一、皇族が首相となった内閣。在任期間54日間は史上最短。最後の挙国一致内閣。
1945年10月5日に内閣総辞職し、次の幣原内閣が発足するまで、職務を執行した。

●第44代内閣総理大臣(1945年10月9日~1946年5月22日) 幣原喜重郎
公職追放により1946年(昭和21年)1月13日に一部の閣僚が入れ替えられた。
1945年(昭和20年)12月18日 (GHQ、敗戦)解散
1946年(昭和21年) 4月10日 22回衆議院議員総選挙 (第21回は1942年)
投票率:72.08% (前回比-11.08%) 白票や無効票を除いた実質投票率:63.38%
※前議員の多数が公職追放され、この選挙で当選した議員でも公職追放された議員もいた。
 <公職追放
政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。
連合国軍最高司令官総司令部の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された。
有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった結果、20万人以上が追放される結果となった。
教育機関(日教組)やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、いわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。
講和が近づくと1950年に第一次追放解除が行われた。
翌1951年5月1日にマシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めた。
これによって同年には25万人以上の追放解除が行われた。
公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(昭和27年法律第94号)により廃止された。


金森国務大臣
日本の官僚、政治家で、憲法学者としても知られる。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。
戦後は貴族院勅選議員を経て吉田茂内閣の憲法担当国務大臣に就任。帝国議会における大日本帝国憲法の改正審議で、憲法に関する政府答弁を行った。特に有名な答弁としては国体についてのものがある。金森は国体を「天皇を憧れの中心として、心の繋がりを持って統合している国家」であると答弁した。これにより国体は変化していないということを強弁し国会を乗り切ることに成功した。
(1886年3月17日 - 1959年6月16日)
1959年、国立国会図書館長を辞職した翌月(73歳)で没した。

nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 2

しおん

興味深い情報をありがとうございます。
思わず、黄色く変色した日本国憲法を、パラパラとめくって読んでしまいました。
ndl.go.jpはこんな資料も公開しているんですね。
私いつも、政府の議事録とかを探してくる人ってすごいなと思うのですが・・・元気さんの、情報強者っぷりには感心させられます。

赤字に反転した部分が、特に重要なんですね・・日本の大学が左翼に傾いているのは、戦後、GHQが、右系の学者をすべて追放したからだと聞いたことがあるんですが・・それを思い出しました。
by しおん (2011-02-08 06:29) 

元気

しおんさん、コメントをありがとうございます。

(一) 憲法改正案は今回若干の修正を加えられて帝国議会の議決を経た。

だから、合法である。
だから、日本国憲法は(憲法として)有効である。
の根拠の一つ(?)でもあると思います。

ならば、いったい誰がどのように修正したのか、その議決を経た背景を知りたいと思いました。

>赤字に反転した部分が、特に重要なんですね

重要というか… (汗)
背景を知る上で留意しなければならないことであると思います。

私は、吉田首相を否定(非難)したいのではありません。
憲法改正に関わった人々を否定(非難)したいのでもありません。

歴史を調べる(知る)ことは、当時を生きた人々がせいいっぱい生きた足跡を知ることだと思います。
その足跡から我々後世が活かさねばならないことがあるはずです。

何かに疑問を持てば、調べるしかありません。
歴史を遡って知ることで見えて来るものがあるかも知れません。
知ることで(未来への)方策も見えてくるかも知れないからです。

止(已)むに止(已)まれぬ事情。
ドミノ倒しのように変化していく状況の記録が歴史です。
後ろを振り返らず、前へ前へと進むのではなく、
前へと進むためには、歴史を知らねばならないと考えています。

by 元気 (2011-02-08 08:52) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。