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秋葉原通り魔事件 [日本の将来考]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080610-00000029-maiall-soci

<秋葉原通り魔>「本当に申し訳ありません」 容疑者両親、謝罪 母は崩れ落ちる
6月10日21時12分配信 毎日新聞
謝罪会見をする父と、その横で泣き崩れる母=青森市内で10日午後7時25分

 父は深く頭を下げ、母は泣き崩れた--。秋葉原7人殺害事件で、加藤智大容疑者(25)の両親が10日夜、青森市の実家前で事件後初めて記者会見。父親(49)は「息子が重大な事件を犯し、亡くなられた方、そしてけがをした方、本当に申し訳ありませんでした」と謝罪した。
 午後7時25分、住民や報道陣約100人が囲むなか、両親はタクシーで帰宅。玄関前で会見に臨んだ。
父親は「社会に与えた不安もかなりあったと思っております。本当に申し訳なく思います」と頭を下げた。
そして「本日警視庁の事情聴取が終了しました。皆様にお答えできる内容はかなり難しいと思いますが、おわびだけ申し上げます」と毅然とした表情で述べた。
 記者団から「事件を防げなかったのか」などの質問が出たが、父親は「捜査の関係もあり、この場ではお答えできない」。
社会的責任を問われると「謝っても謝っても償いきれません。まだ心の整理もついていない」と三度頭を下げた。加藤容疑者については「(取り調べに)正直に述べてくれればと思います」と、原因解明を捜査に託し、約5分で終了した。
 父親は紺色チェックの半そでシャツ、母親(53)は茶色長そでシャツ姿。
母親は白いハンカチを口に当てて唇をかみしめていたが、途中で地面に崩れ落ち、うつむき、手で顔を覆った。
会見終了後も両手をついたまま。父親の手を借りて地面をはうように約2メートル離れた玄関へ向かった。
【宍戸護、酒井祥宏、山本佳孝】

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25才(成人)の犯人が逮捕されて、ご両親が謝罪会見をする。
上記の記事を読む限りは、表題の 「謝罪会見をする父と、その横で泣き崩れる母」 には違和感を覚える。
「謝罪会見」 をしたというより、事情徴収を終えてタクシーで帰宅した両親を待ち構えた報道陣が質問攻めにした。
という感じが拭えない。
それは、犯人のした行為は、どんな言い訳を並べようと、許される行為ではない。
精神鑑定や社会への不満などを理由に免罪符を与えてはいけない許されざる行為である。
だからといって、ご両親や兄弟がマスコミから攻撃(失礼!)を受けるのはいかがなものか。
マスコミは、いつだって、センセーショナルで物見遊山で無責任の感を拭えないからだ。

ご両親は、本当に消えてしまえるものなら消えてしまいたいだろう。
何度か有っただろう過去の子どもの言動への不安を思い起こしているかもしれない。
いっそのこと… と、考えないといえばウソだと思う。
それほどに、社会に対して犯した罪は重く、背負うには重過ぎる荷物だからだ。
自らの罪として背負うには、罪のない方々の死は重過ぎることだろう。

マスコミの方々に問いたい。
あなたがたが犯罪者の親族(特にご両親)に望むことは何なのですか?
謝罪ですか?
土下座ですか?
死で贖うことですか?

精神鑑定で無罪にでもなれば、巻き込まれた方々は報われない。
もし、精神鑑定で無罪になるとすれば、いつも思うのだが、事件が起こるまで見過ごしていた関係者(ご両親、友人、先生… 犯人と関わった全ての人)の罪を問うべきだと思う。
それが出来ていないからこそ、犯行は人を変え繰り返されているのだと思う。
精神鑑定で無罪となったとしたら、死刑にならないとすれば、
それは、本人には、死ぬより辛い生を選ばせなければならないはずだ。
それは、けっして、報復や復讐などという個人レベルの報いではない。
それは、当然の結果としての社会規律であり、将来の安全のための社会レベルでの保証だと思うからだ。

安易に、責任を家庭や社会に押し付けて、フタをするのでなく、
再発防止のための施策こそ検討すべきだと思う。

家庭内での問題は家庭で解決する。
それは、ムラという小さい社会が充実している時代ならば、有効な歯止めや道標になったのかも知れないが、
大きな社会となり、親の威厳や教師の指導も行き渡らない時代となった今、責任について、考え直す時代になったのではないだろうか。

被害に遭われた方のご冥福をお祈りすると共に、
悲惨な事件が繰り返されないよう願う次第です。


ご両親は、(責任ある)被害者だと… 私は、思います。


25才。
成人して5年。本来ならば、分別も責任ある行動もとれる年齢のはず。
なのに、犯行に及んだ。
朝早くから、自分の行動を掲示板に逐次書き込み、犯行に及んでいる。
それは、自らを奮い立たせる行為であったかもしれないし、
それは、自らを何か英雄的な特別な存在たらしめる行為だったのかも知れない。

大きな社会の中に組み込まれていると、自分自身の個性が埋没するような錯覚に陥るかもしれない。
何かに属し、誰かに認められ、必要とされる存在としての特別感が無いと焦燥感でやりきれなくなるかもしれない。

派遣社員の将来は、けっして明るくは無い。
長く務めれば年功序列式に安定した収入と地位が築けた時代は遠い昔の話のようだ。
特別な才能(学歴、特技)を持たない人は何を頼りに生きれば良いのか…
学校時代には、それなりに生きれても社会に出れば、それなりでは生きることは難しい。
将来を考えればなおさらだ。
お金が全てでは無いけれど、お金が無ければ生きるのは容易くない。
それが今の社会の現実である。
現実を受け入れた上でどう生きるのか。
それが、通過儀礼のように、現代の若者に試練として課せられ、必然的に乗り越えることを要求される。
必要なのは、智恵であり、経験であり、柔軟さ。そして、それらのバランス感覚なのだ。

通過儀礼を果たせなかった者は、脱落者となる。
本来なら自分の分をワキマエ、社会での自分の役割を自覚して行動するのが大人である。
ところが、学生時代には、偽善に満ちたいびつな平等教育(意識)を施される。
そのギャップを受け入れない者はどうなるのだろうか。
社会に出て感じた行き場の無い不平等感は、特定の他者への怒りに転じる。
特定の人々へ怒りが発散されない場合、その怒りは不特定多数の他者に向けられる。
それが、今回のような惨事に向かうように思えてならない。

他者への責任転嫁。
自分に対する無責任さ。
考えの安易さ。堪え性の無さ。

それは、未熟な個性ゆえの産物なのだが、
はたして、個性を成熟させるシステムがこの日本で、今現在、あるといえるだろうか。
昔なら、人の目があった。
それは、近所のおじさん、おばさん、ご隠居さんだったかもしれない。
熱血教師だったかもしれない。とにかく、気にかけて、関わってくれる人々がいたのだ。
さらには、「誰が見ていなくてもおてんとう様が見ていなさる」 という道徳があった。
そういう意味では、現代は、自己と他者との繋がりの希薄さが増している気がしてならない。
自己は、他者との関係性においてしか確認出来ないからだ。
関係性が築けず、主として築く場が安易な(責任の所在が不明瞭な)バーチャルの世界であったらどうなるだろう。
携帯やゲーム、テレビを通してだけ自己が確認出来るのだとしたら…
生身の人間のふれあい、ぶつかりあいが無いとすれば…
それは、現実に生きているという意識をも希薄なものにする。

今に生きながら存在が不明瞭(自己の確認が困難)な世の中で起きた事件。
私には、そのように思えてならないのだ。

犯人を厳罰に処し、似たような事件が続かぬように…
今こそ、成熟した社会の取り組みと仕組みが必要なように思えてならない。
社会が覚悟と責任を持って、(教育としての)人格形成にあたる時期が来たのだと思う。

子どもは社会のモノで、神様の預かりモノ。
そういった考えが日本古来の考えの根本にあるからである。


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コメント 2

reiko

元気さん、今晩は。

私も同じような思いで拝読しておりました。

マスコミは、鬼の首でも取ったように、
心情を踏みにじった質問しかせず・・・報道のモラルを疑いたくなりますね。

仰るように、この犯人は25歳にもなり、
善悪の分別もある大人・・・自分の不甲斐なさを恥じず、
社会が・・・家族が・・・会社が悪いと、殺した行為を正当化する。
もっとも卑劣な人間だと思います。
私個人は、この犯人には極刑を~!そう願っています。

それに伴い・・・二度とこのような事件を起こさない社会を創る為に、
どうすべきか?
教育を含めて~~国・学校・家が一体になって、
講じていくべきだと思います。(私見ですみません・・・)



人の命を無碍に
by reiko (2008-06-13 01:23) 

元気

reiko さん、こんばんは。

本当に… 似たような事件が起こる度に考えてしまいますよね。
「社会が悪い」 などと、社会のせいにすることは何の解決にもなりません。
もちろん、教育にも社会にも問題はあります。
ですが、問題の無い社会などというものは存在しませんし、日常茶飯事の事件では無いからこそ、大々的に報道されているのだと思います。
だとしたら、やはり、この事件は、
特別な感性(個性)を持った個人が引き起こした事件であり、特別な事件だと思うのです。
それを防ぐ手立てとしては、まず個人の責任であることを大前提にすべきだと思います。
個人の甘えを許さない社会の風潮こそが必要だと考えています。

社会を正していくのは、大人の役割です。
選挙で議員を選ぶことも責任ですが、社会と関わることも責任です。
こういう事件が起こる度に、人の繋がり、人と関わっていくことの必要性を強く感じます。
スケープゴートを見つけることでも、異端を排斥することでもなく、個人がモラルを尊び道義を知ることが必要ということです。
(誰が見ていなくてもオテント様が見ていなさるということです)

私たち大人は、毅然とした大人にならなければなりませんね。
それは、(人を)甘やかすことよりも、実は難しいことなのですよね。
志を高く持つ大人。とっても難しいですよね。(笑)



by 元気 (2008-06-13 22:41) 

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