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「国を思う無私の心」 [日本の将来考]

[猫] 今日は衆議院選挙、投票日です。さっき、行って来ました。

昔、黒船の来訪で西洋列強の脅威を感じた日本。
日本は、他のアジア諸国のように植民地化されることに危機感を持ちました。
日本が西洋列強に対抗するためには、富国強兵しかありませんでした。
明治維新は、武士という権威ある存在が、国を思い、私心を捨てたことで成し遂げられた偉業でした。
それは、圧制に苦しむ民衆が武士に反発し革命を成し遂げたのとは違うのです。
国を救う道として、武士が私心を捨て、日本国内の心を一つにするための大政奉還。
それは、目先の利益よりも、国の行く末を重んじたゆえに成し遂げられたのだと思います。

今、日本は、「国を思う心」 、「無私の心」 を置き去りにしている気がしてなりません。
置き去りにしても、私利私欲に走っても、何ら支障を感ずることがないほどに、鈍感無知になっています。
けれど、置き去りにされたものが二度と得がたい大切なモノならば…
日本は、日本国民は、いずれ、そのツケを払わねばなりません。
さらには、そのツケを払わされるのは、まだ幼い子らやこれから生まれる子らであること。
どれほどの日本人が、その責任の重さと覚悟を持っているのか… 疑問です。

選挙も政治も政策も… 無関心かマスコミ主導です。
まるで、マスコミ主権のようなありさまの日本です。
政権交代が目的で、夢のような政策が実現されるのか… 賭けをしているかのようです。
その賭けが思惑と違った結果となったなら…
思惑と同じでも、ツケを将来に持ち越すことになるとしたら…
日本人は、私利私欲に走り、国を思う心を忘れたといえるのかも知れません。

伊勢雅臣氏のメルマガで、
『横井小楠 維新の青写真を描いた男』  新潮新書 徳永洋著
『慶喜を動かした男―小説 知の巨人・横井小楠』 祥伝社ノン・ポシェット 童門冬二著
の紹介(?)がありました。
とても興味深い内容です。抜粋、転記いたします。

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横井小楠 ~ 明治維新の設計者
■3.越前藩へ■
嘉永4(1851)年2月、小楠は諸国遊歴の旅に出発した。すで に43歳となっていた。
小楠は、北九州、山陽道、大坂、大和、伊勢、さらには北陸まで足を伸ばし、各地で名高い人物と会った。
特に福井には25日も滞在し、歓待を受けた。小楠堂には越前藩から来た武士も学んでいて、
小楠の評判を国に伝えていたのである。
滞在中は連日のように講義を求められ、それがさらに小楠の名声を高めた。
帰路、琵琶湖西岸の小川村を訪ねた。小楠はかつて陽明学者・熊沢蕃山の書から多くを学んだが、
その蕃山の師が近江聖人と呼ばれた中江藤樹であり、この小川村には藤樹が書院を開いた跡があった。

「国を治め天下を平らかにする」 という政治の根本は、まず人間一人ひとりの心の中にある 「まごころ」 を磨くところから始めなければならないと説いた藤樹の教えは、村全体の空気に染みこんでいた。
日本全体をそのような道ある国にしたい、というのが、小楠の志だった。

越前藩に招聘する案に藩主・松平慶永も乗り気になり、肥後藩主・細川斉護に、小楠借用を願い出た。
松平慶永の妻は斉護の娘で、婿-舅(しゅうと)の関係である。
しかし、肥後藩の重役たちは「藩の恥を晒(さら)すようなものだ」と聞き入れない。

結局、慶永は斉護に二度も直接手紙を書き、斉護は、「ここまで婿殿が思い込んでいるのだ」
と重役たちの反対を押し切って、承諾させ、1858年4月、小楠は福井に着き、
50人扶持の待遇を受けて、越前藩の藩校講義、藩政改革の指導に当たることになった。

■4.藩を富ます■
越前藩の藩政改革で、小楠がまず取り組んだのは、殖産興業 によって藩を富ますことだった。
従来の藩政改革は倹約一辺倒だったが、資金を貿易や商品開発に注ぎ、富を増やすことを説いた。
藩士・三岡八郎(後の由利公正、五箇条のご誓文の起草に参画)を使って、
名望のある商人を集めて物産商会所を作らせ、生糸、茶、麻などを扱わせた。
そして農村での養蚕を奨励し、長崎のオランダ商館を通じて生糸を輸出した。
3年後には、貿易高が3百万両にも達し、藩の金蔵には今まで見たこともない富が蓄えられた。
小楠の越前藩における名声は完全に確立された。

小楠が旨としていた 「実学」 とは、学者が世間を知らずに論語などの字句の研究に沈潜し、
一方では政治家が学問を通じて自分の身を修めることをしない、という傾向を批判していた。
これも中江藤樹の、「学問とは人の生き方を正すもの」 という教えを継承する姿勢だった。

■5.「富国」「強兵」「士道」■
安政7年春、新藩主となっていた松平茂昭が江戸からお国入りし、すぐに小楠に会いたいと言ってきた。
茂昭は藩が豊かになったことを感謝し、その使途について大綱を定めるため、意見を聞きたいと言った。
小楠は感激して、すぐに筆をとり、 『国是三論』  と題した意見書をとりまとめた。
『国是三論』 は、「富国」、「強兵」、「士道」 の三つの柱から成り立っていた。

「富国」 は、生産を奨励、藩の財政も豊かにして税率を下げる。
藩民の暮らしを豊かにし、人の道を教える。
「強兵」 は、極東に押し寄せてきた西洋列強に対抗できる海軍を作る
日本海に面した越前藩も青少年を鍛え、船で他国と往来させて、外国の事情を見聞させる
「士道」は、人君は慈愛の心を持ち、家臣はその心を体して、人民を治める。人材が次々と出てくる。

「富国強兵」 は、西洋列強の侵略に備える策として、すでに多くの先人が唱えていたが、
小楠はこれに「士道」を加え、この3つとも人材を育成輩出することを中心に置いた。
この点でも、中江藤樹の志が受け継がれている。
小楠の思想は、三岡八郎、後の由利公正が「五箇条のご誓文」 を起草する際にも受け継がれた
「上下(しょうか)心を一 (ひとつ)にして盛に経綸(けいりん、経済その他の活動)を行ふべし」
「智識を世界に求め大に皇基(国家統治の基礎)を振起すべし」 などの表現に窺われる。

■6.「幕府も朝廷も、私の心を捨てて」■
1862年、松平慶永は幕府から政事総裁職への就任を要請された。
その前年、大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、幕政は混迷を極めていた。
慶永は小楠を江戸に呼び寄せ、意見を求めた。小楠は政事総裁職を引き受けるべき、と主張し、
実行すべき政策を 『国是7カ条』 として献策した。

その第一条は「将軍は上洛して列世(歴代)の無礼を天皇に謝罪すること」であった。
幕府も朝廷も、私の心を捨てて、公の心を持って議論を尽くし、日本の進路を決定しなければならない。
そのために、まず天皇から大政を委任された幕府の方から、歴代の無礼をお詫びし、
私心なき事を天下に示そうというのである。

さらに、大名の参勤交代を大幅に縮小し、人質として江戸に置かせていた妻子を故国に帰らせること。
これも大名たちに幕府の私心なき事を示すためである。
あとは人材登用、公論の尊重、海軍増強、貿易振興など、『国是三論』 に共通するものであった。

西洋列強による国難に際し、互いに私心を持ったまま勢力争いを していては国家の独立を守れない。
まずは幕府が私心無きことを示して、朝廷や諸大名の力を統合していこうというのである。

慶永は、「天下の人心を一新するために効果のある政策」 と希望を抱き、政事総裁職就任を決意した。
『国是7カ条』 を就任の条件とするよう、将軍側近の大久保忠寛など要人の間で小楠に根回しをさせた。
要人たちも小楠の説得を受け入れた。

■7.「大乱を未然に防ぐ」■
慶永は政事総裁職に就任してから、早速、参勤交代の大幅縮小、大名の妻子帰国などを実現した。
しかし「列世(歴代)の無礼を天皇に謝罪すること」には、幕府の首脳の中で反対意見が強かった。
「将軍は天皇から政治の大権を委任されていて、その中には外交問題も入っているので、勅許を得ずに外国と条約を結んだからといって、無礼には当たらない」という論も起きる。
幕府の面子をなんとか保とうという 「私心」 である

その中で将軍後見職・一橋慶喜(後に最後の将軍として大政奉還)が 「小楠の意見を聞きたい」 と言う。
幕府首脳がずらりと並んだ中で、小楠は語った。

幕府が公武一和を標榜する以上、武家の頂点に立つ将軍が自ら勤皇の実をあげることが、
徳川家が私心を去り、公 の心を持ったということの証(あかし)になります。
将軍 にとってもお辛いこととは存じますが、この一事によって天下の人心が鎮まり、
大乱を未然に防ぐことができます。

幕府と朝廷が互いに争い、諸大名がこれに加われば、国内は内乱状態になる。
西洋列強は当然、それぞれの後押しをして、介入してくる。
そうなれば他のアジア諸国のように植民地化されることは目に見えている
「大乱」とはこうした事態を指す

慶喜が真っ先に、「横井先生のご意見に感服した」 と賛成すると、首脳たちは反対する気持ちを失った。

■8.「その時は、政権を朝廷にお返しすれば」■
慶永には、もう一つ心配があった。
将軍が上洛して、今までの無礼を謝罪しても、朝廷があくまで 「攘夷を実行せよ」  と命じた時、
どうすべきか、という問題である。

「その時は、政権を朝廷にお返しすればよろしゅうございましょう」 
小楠はこともなげに答えた。慶永は驚いた。

(攘夷のような)できもしないことをできるかのように天下を偽ることは、私の心に通じます。
できないことはあくまでもできないと申し上げ、できないことをどうしてもやれと仰せられるのなら、
政治の大権を朝廷にお返しして、朝廷の方で攘夷を実行していただければよろしい。

攘夷をできるかのように偽っているのも、政治の大権にしがみついていたいという幕府の私心である。
それでは国内の公論を欺き時間稼ぎをしている間に、列強はひたひたと迫ってくる。
小楠の説は、国家の独立を保つためには、国内が公論のもとで一致団結しなければならず
そのためにはそれぞれが 「私心」 を捨てて、ひたすら国全体のためにどうすべきか、と智慧を絞り
力を合わせなければならない、という一点にあった。

■9.「清冽な地下水のごとき伝統」■
慶喜が将軍を継ぎ、幕府が朝廷に恭順の意を示すことで内乱を最小限の規模に収め
大政奉還によって、明治新政府が誕生した。
大筋として、小楠の描いた筋書きに従って、わが国は一挙に新体制への一新を図り
その後は富国強兵に邁進して、独立維持に成功するのである
小楠の説に、松平慶永、一橋慶喜、勝、坂本、西郷など、当時の中心人物が共感したからであろう。
西郷も、小楠の説を勝海舟から聞き、やり通さなければ相済まないと、大久保利通に書き送っている。
なぜ小楠の説がこれほどの説得力を持ったのか。
それはその根底に、「国を思う無私の心」 を置いたからだ。

小楠の敬愛する楠木正成も中江藤樹も、無私の心で世のため国のために尽くした足跡を歴史に残した。
その清冽な地下水のごとき伝統を掘り当て、幕末の国難の時期に噴き出させたのが小楠の功績だった。

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[猫] 先にご紹介した、『マキアヴェッリ語録』 とも通じることです。
   8.30後の日本を考える上に、必要な言葉の数々であると思います。

  『マキアヴェッリ語録』 人間篇-22
人間にとって最高に名誉ある行為は、祖国のために役立つことである。
具体的には、法律を制定し、制度を整備することによって、国の改革に力をつくす人々のことである。
彼らこそ、誰よりも賞賛されてしかるべきであろう。
なにしろ、少数の人々だけがそれをやる機会に恵まれ、
その中でもさらに少ない数の人間が、その機会を活用できるのであり、
そのうえこの中でもほんの数人が、実現させる人になるのだ。
だからこそ、人の望みうる栄光のうちでも最高の栄誉が与えられるべきである。

また、国家を動かす機会に恵まれなかったが、ペンによってその方策を人類に示した人々、
プラトンやアリストテレス、その他の同類の人々も、人類からの尊敬を受けるに十分だと信ずる。
この種の人々は、ソロンやリュクルゴスのように、現実の国家は動かせなかったが、
それは、彼らが無知であったからではない。
ただ単に、当時の情況が、彼らにそれを許さなかったのである。
              ~『フィレンツェ共和国の今後について、メディチ家の質問に答えて』~


[猫] 敵は日本人の心の中にある無関心とコトナカレ主義かも知れません。
   目前の生活第一主義かもしれません。
   ならば、大乱に即して、今後、日本人が取るべき行動は、
   国を思う無私の指導者の出現に期待出来ないならば、

   我々、日本人、一人一人が、「国を思う無私の心」 を持ち、「国を思う無私の人」 となる。

   そんな偉業(!?)が求められているのかも知れません。[ぴかぴか(新しい)]
   
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plant

こんにちは。
幕末期から明治にかけては、ものすごく優秀な方たちのかみ合った議論が社会を動かしていったことが分かりますね。
現在は、考えの異なる人が好き勝手に言い合っているのを見ての人気投票が、全体の方針を決めているようです。
明らかに、衆愚政治に落ちこんでいます。

実は、「国を思う無私の心」という表現には抵抗感をおぼえますが、衆愚政治が良いとも思えません。
プラトン流の哲人政治が、私の理想に近いかも。
ああ、元気さんは「国を思う無私の指導者」とも書かれていますね。

ちなみに、プラトンや師匠のソクラテスは、アテネの政治にも影響力を持っていたみたいですよ。ソクラテスは兵士としても優秀だったらしいですし。
マキアベリの時代には、誤解されていたのでしょう。
by plant (2009-08-30 21:41) 

元気

plant さん、こんばんは。
コメントをありがとうございます。

>ものすごく優秀な方たちのかみ合った議論が社会を動かしていった

そうですね。
色々な紆余曲折が有って、私欲で動いた人もいたでしょうが、
国の将来を慮り動いた人が日本を救った気がしています。

>実は、「国を思う無私の心」という表現には抵抗感をおぼえますが

なるほど。
なんだか、この言葉だけを取り上げると胡散臭そうです。
けれど、その心でもって行動されているところが凄いと思います。
今の政治を動かしている人々の心が何で動いているのか…
とても疑問に思えてならないからです。
誰もが出来ない難しいことだからこそ、尊敬を受けるに相応しいのだと思います。
こういう歴史はドラマとしても面白いですので分かりやすいです。
そして、広く知られる機会を得れば日本のことを知る人も増えると思います。
先人を敬う気持ちも自ずと湧き、その上に今があるということを尊く誇らしく思える気がします。

日本人にとっては、日本人であるというだけで尊いのだと、当たり前に思えるようになれば良いなと思います。
それが再起への希望に繋がると思うからです。
by 元気 (2009-09-01 00:53) 

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