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『ランボー 最後の戦場』 [映画]

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この映画を観たのは、公開してすぐ、5月下旬のことでした。
記事にするまでに、ずいぶんと日数が掛かってしまいました。[ふらふら]
私は、とても、メッセージ性の強い映画だと受け止めています。
そして、「最後の戦場」 というサブタイトルどおり、シリーズ最後の作品であると思います。

人のために生きること。
自分のために生きること。
この二つの、「生きること」 の意味について、とても考えさせられる作品でした。
スタローン自身の思い入れが感じられる(監督、脚本、主演)作品です。

ジョン・ランボーという、「生きる兵器」 は、 
障害になるものを排除し、その類希な戦闘能力で行動して来ました。
一瞬の迷いも許されない究極の綱渡り人生。それがランボーの生き方でした。
そこには、故郷に帰るという選択肢は無かったのです。
帰らないのではなく、帰る(心の状態になる)ことがなかったのです。
望郷心や熱く優しい心は、心の奥に閉じ込めていました。
ランボーの心の叫びや希望は、行き場を無くして、心の奥に、まるで封印されているかのようでした。

「何が言いたかった映画? 戦闘シーンばっかりでよく分からなかった」
と言う評判も承知して(無理からぬことだと思)います。
壮絶な戦闘シーンに目を奪われると、ランボーの心の中は見えて来ません。
ランボーの心の変化も見えてきにくいかも知れません。

私自身は、最後の最後まで、ランボーが見えなくなっても…
証明が点くまで立ち上がることが出来ない映画でした。

以下ネタバレあり。








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1982年、アメリカ----------------- 自らの尊厳のため
1985年、ベトナム----------------- 幾多の戦友のため
1988年、アフガニスタン---------唯一の理解者のため
2008年、ミャンマー--------すべてに決着をつけるため
最後の戦場は、男に何を与え、何を奪うのか?


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5人の傭兵とともに、アメリカのキリスト教支援団の救出に向かうランボー。
5人の傭兵が救出を断念し、撤退しようとしたその時、

「ムダに生きるか、何のために死ぬか。お前が決めろ!」 

と言い放ちます。
戦場でしか生きる場所、活かされる場所のない兵器としての存在。
それが傭兵であり、ランボーの生き様でした。
力強く、言い放ったのには、行動に対する自信と責任、(自分の役割としての)使命感が有ったのです。
それは、自分たちが生きる場所は戦場であるという覚悟です。
それは、(求めても得られることはない、)安楽の地は無いという覚悟でもあったのです。
それは、殺人兵器としてしか生きる道が無いからこその覚悟でした。

サラという女性の存在がランボーの頑なな心を開かせ動かしたのだと思います。
不器用に、生きることを優先する余り、どう生きるかを考えなかったランボー。
生きることの意味を気付かせたのがサラだったのです。
サラは、無謀なほどに困難な道を他者にために踏み出そうとしていたからです。

一人でも多くの命を救おうと懸命なサラの生き方。
それは、生き方の違いを超えた、ランボーさえも、無視することが出来ない覚悟を伴う生き方でした。
それは、キリスト教に導かれた行動でありながら、ランボーの心をも刺激したのです。
命を賭して守るに値するモノがあることをサラは(他者への命がけの)行動で示したのです。
それは、無関心を装い、愚鈍であることに徹して、世捨て人のような状態だったランボーの心を甦らせたのでした。
サラを救出することは、(戦場から)ランボー自身を救出することでもあったのです。
ですから、サラを守ることは、ランボー自身を守ることでもあったのです。
容赦ない攻撃と殺戮さえも、自分を守る正当防衛なのだと思いました。

それまで(ランボーが)捨てていた故郷は、(ランボーを)捨てた故郷でした。
ランボーは、殺人兵器である自分が住むことで故郷を穢したく無かったのだと思います。
ランボーの生き様は、故郷で生きてさえも許される尊い行為だと思えたとき、
ランボーは、故郷に向かう道を歩み出したのだと思います。
一歩、一歩…
地面を踏みしめながら…
それは、自らの行動に責任と誇りを持った男の歩みだと思いました。

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日本が、日本国憲法を守ることは、素晴らしい理想の上に成り立っています。
ですが、残念なことに、憲法第九条は、(外国に対して)何らかの効力を発揮することはありません。
逃げの切り札にすることは、素晴らしいはずの理念とはかけ離れた卑怯な行為ですし、
もとより、攻撃のための武器になろうはずがありません。
それは、絵に描いた餅に近いもの、食べられないもの(理想という理念)だからです。

頑なに(9条を守る)道に突き進むことは無謀であり、主権国家としては大きな欠陥であると思います。
自分の国(財産や命の拠り所)を守ることは、大人の責任であるはずです。
放棄したり、人に媚びることで守れるものではないはずです。

ランボーが生きるためにしていたことは、他人と深く係わらずに生きることでした。
係わらず、刺激せずに生きれば、生き残れる(共存できる)と思い込もうとしていました。
だが、実際にはどうだったでしょうか。
それは、生きながら、死んでいることと同じでした。
ジョン・ランボーという存在(現在)を否定するように、過去も未来も否定していたからです。
それは、自尊心や誇りを、打ち捨てた生き方だったからです。
だからこそ、この最後の戦場からのメッセージは、とても重かったのです。

ランボーが熾烈で過酷な戦闘の末に獲得したのは、
自分が生きることに対する肯定でした。
自分の未来に対する肯定でした。
それは、過去の上にある今の自分の肯定でもあったのです。

日本は、過去を乗り越えて、今の日本を築き上げて来ました。
将来は、過去を否定しては築けないと思います。
未来の日本への繋げて行くことは、我々大人の責任であると思いました。

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