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『 「眞相箱」 の呪縛を解く 』 その4 (陸上作戦) [読書]

◎陸上作戦
○香港陥落
香港陥落についてお話し下さい。

○マ元帥バタアンより豪州へ
マッカーサー元帥が、バタアンからオーストラリアへ移動された当時の真相をお教え下さい。
(※1)昭和17年マニラ陥落以来、日本軍に渡すことに反対だったマッカーサー元帥。
    小さなゲリラ部隊の活動を活発化してアメリカの援軍を待つ計画でしたが、
    たまたま、アーストラリアで西南太平洋最高司令官に就任する命令が届き移動。

○バタアン死の行進
どうぞ、”バタアンにおける死の行進”について少し精しくお知らせ下さい。
(※2)日本軍の拷問から逃れ出たウイリアム・E・ダイエス少佐以下2名の目撃談です。
   その報告から、捕虜になった2万2千300名のアメリカ人の内、少なくとも7700名が拷問射殺された。
   日本人看守兵は、一度も水をくれず、同胞を助けることは許されず、
   歩けなくなった者は射殺されたり生きたまま埋められた。
   「戦時捕虜としての扱いはせず何の権利も特権もない虜として扱う」

○二ヶ月余に及ぶムンダ攻略戦
ムンダの戦闘に関する真相をお話しいただきたいと存じます。

○アッツ、キスカ島次いで欠陥
日本軍がアッツ、キスカ両島を失うに至った決定的な原因は何であったのかお知らせ下さい。

○氷雪と悪天候に禍されたアリューシャン作戦
アリューシャンの戦闘のあらましをお話しいただけませんか。

○キスカ撤退後も米軍爆撃つづく
日本軍がキスカ島を放棄した後に、アメリカ軍が同島を攻撃したのは何故ですか。

○爆弾と砲弾の降るマーシャル群島
マーシャル群島クェゼリン環礁の戦闘についてお話し下さい。

○ニューギニア島サイドルの戦闘
ニューギニア島サイドルの戦闘について、簡単にお話し下さい。

○彼我両軍必死、サイパン島の攻防戦
アメリカ軍のサイパン上陸作戦の状況と、その後の戦闘の様子についてお聞かせ下さいませ。

○死の街と化したマニラ
戦争中のマニラの真相についてお話し下さい。
(※3)マニラの破壊は日本軍最高司令官の周到なる計画により行われたものである。
    山下奉文大将によるマニラ壊滅のための防御計画である。
    慈善施設、宗教上、歴史上記念物を組織的に消却破壊した
    避難民もろとも逃げ道を塞いで機銃を打ち込み焼き払った。

○米軍三方面より進撃、ルソンの争奪戦
リンガエン湾にアメリカ軍が上陸してから、マニラが陥落するまでのルソン島争奪戦の真相をお知らせ下さい。

○火山灰赤く染む硫黄島
硫黄島の戦闘についての真相をお知らせ願います。

○沖縄本島遂に米軍の手中に
我が軍が沖縄本島の戦で玉砕した真相をお知らせ下さい。

○ソヴィエットの参戦と作戦経過
ロシアが対日戦に参加したことに関して精しくお知らせ下さい。
(※4)ロシアが容赦なく進軍を開始し、どういう経路で進軍したかの説明。

○日本軍のロケット砲の威力
日本軍でもロケット砲を使用したのでしょうか?
もし使用したなら、その威力はどんなものだったのですか。

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[猫]多くは語れません。
 それは、これらの陸上戦の実際について、検証がなされていないからです。
 ただ、踏まえておかねばならない情報は存在します。
 4点だけ、(ウィキより)補足しておきたいと思います。

(※1)
ウィキ「バターン死の行進」 より。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2
マッカーサーは12月24日マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島のコレヒドール要塞に立てこもった。日本軍は翌1月2日にマニラの無血占領に成功した。3月12日マッカーサーは "I shall return" の言を残してコレヒドールから脱出した。

(※2) 
上記と同じ。ウィキ「バターン死の行進」 より。
米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。コレヒドール要塞では食料が尽きており、また日本軍さえも十分な食料を用意できておらず、さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。日本兵の間にもマラリア患者が続出した。

(※3)
ウィキ「マニラ大虐殺」 より。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
1945年1月にマニラが在るルソン島に連合軍が上陸、2月3日、アメリカ軍第1騎兵師団と第37師団がマニラへ突入した。第十四方面軍司令官の山下奉文大将はマニラの無防備都市を宣言する方針であったが、大本営の反対により岩淵三次海軍少将指揮下の陸海軍の混成部隊はマニラに残され、アメリカ軍との間で3週間以上の激しい市街戦を行った。
この10万人とされる市民の犠牲者が、日本軍による虐殺により生じたと言われている。この10万人とはマニラの戦いを通じてのフィリピン人犠牲者の数とほぼ同数であり、犠牲者の大半は日本軍に殺されたとする主張である。戦後、このマニラでの虐殺行為の責任から、山下大将はマニラ軍事裁判で絞首刑となった(詳細は、山下奉文の項に記述)。判決には山下大将等によって大戦前期にフィリピンから追われたマッカーサーの強い影響があったともいわれる("I came out of Bataan and I shall return"という有名なスピーチをマッカーサーが行ったのは、この時である)。 具体的には聖パウロ大学(サン・パブロ大学)での994名殺害、北部墓地での約2,000名の処刑、サンティアゴ監獄での集団殺害などが東京裁判では主張された。

※4
ウィキ「ソ連対日参戦」 より。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E5%8F%82%E6%88%A6
当時の満州国で1945年8月9日未明に開始された、大日本帝国の関東軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘。ソ連軍が圧勝した。
満洲における日本の軍事力が急速に低下する一方でドイツ軍は敗退を続け、ソ連側に余力が生じたことでソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。
ソ連はヨーロッパ方面においてドイツを破ったのちに、日本と事を構える方針であった。ヤルタ会談においては、ルーズベルト大統領の要請に答える形で、ドイツ降伏後3ヶ月での対日参戦を約束。1945年4月には、1941年に締結された5年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めないことを、日本政府に通告した。ドイツ降伏後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。
日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうといた。しかしソ連が中立条約の不延長を宣言したことやソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議において総合的な国際情勢について議論がなされ、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(1945年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。

関東軍の前線部隊においては、ソ連軍の動きについて情報を得ており、第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面において兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地貞吾参謀に情勢判断を求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。
8月3日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。また8月4日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えたものの、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。

ソ連戦史によれば、対ソ防衛戦におけるソ連軍の攻勢作戦の概要としては、第一に鉄道輸送を用いて圧倒的な兵力を準備し、第二にその集中した膨大な戦力を秘匿しつつ満州地方に対して東西北からの三方面軍に編成して分進合撃を行い、第三に作戦発動とともに急襲を加え、速戦即決の目的を達することがあげられる。微視的に看れば、ソ連軍は西方面においては左翼一部を除いて大部分は遭遇戦の方式でもって日本軍を撃滅しようとし、一方東方面においては徹底的な陣地攻撃の方式をとっている。北方面は東西の戦局を見極ながらの攻撃という支援的な作戦であった。 北樺太及びカムチャツカ方面では、開戦の初期は防衛にあたり、満洲における主作戦の進展次第で南樺太および千島への進攻を行なうこととした。

ソ連軍との戦闘が始まると直ちに、関東軍は居留民に対し避難処置を取るべく、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な研究を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。第一列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、対立鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。
これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は後退できなかった。特に最前線地域の居留民の多くは第一線部隊とともに最後をともにする事態が続出し、また「根こそぎ動員」によって戦闘力を完全に失っていた家族・村落・地域においては、侵攻してきたソ連軍兵士やかつて土地を奪われた周辺住民による暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、残留孤児となる人々も出た。



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