『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』 [DVD]
見逃していた映画。DVDをレンタルして来ました。
<あらすじ>
賄い付きの寮で暮らす高校生の山本(市原隼人)と渡辺(浅利陽介 )。
逃げない男、能登(三浦春馬)と3人で「俺さまーズ」 というバンドをやっていたが、
能登がバイク事故で呆気なく死んだことで、死が身近なものとなる。
能登が、(逃げない根性ある)エンディングを果たしたからだ。
だから、山本は、能登を越える 「最高のエンディング」 探しで焦っていた。
どう死ぬか。
「愛する彼女のために死ぬ」 それが能登を越えた死だと信じたい山本。
どう生きるか。
自分の才能が発揮出来る場所があると信じて奔走する渡辺。
雪崎絵理(関めぐみ)は、呆気なく死んでしまった家族の死を受け入れることが出来ないでいた。
死をどう乗り越えるか。
すると、突然雪とともに現われたチェーンソー男。
絵里は、彼を倒すことで、家族の死を乗り越えられると信じた。
永遠のライバル能登。能登の声、「根性なし!」 の声が山本につきまとう。
彼は逃げない男だった。逃げずに(恐怖に)立ち向かい、そして死んだのだ。
それは、根性試しのような走行の果ての死だった。
自分は根性なしだと思い込むことで現実から逃げたい山本。
先を越された(先に死なれた)焦燥感と喪失感が山本を苦しめる。
思春期真っ只中の高校生が死に直面することで恋愛を超えた体験を共有する。
山本と理恵は、チェーンソー男を倒すために力を合せることで愛(生きること)に目覚めていく。
果たして、チェーンソー男とは何者なのか…
現実なのか幻なのか…
この映画は、若者の焦燥感を描いた映画です。
何をしていいのか、何が出来るのか自分でも分からず、
特別な存在でありたいけれど、平凡な生活に埋没するしかない若者を描いています。
求められ、誰かにとって無くてはならない存在となったとき、自分の存在が生きて来ます。
それが絵里にとっては山本の存在であり、
山本にとっては絵里の存在でした。
チェーンソーで切られようとしていたのは、死への恐怖であり、生への恐怖だと思います。
2人は、チェーンソー男を倒すことで(生きる)根性を持つことが出来たのかもしれません。
なんとなく生きている日常。
便利な世の中。平和な世の中。衣食住に困らない豊かな暮らし。
それらが実態としての自分と結びつかないという焦燥感は、
生への執着を薄れさせ、死への恐怖さえ薄れさせてしまいます。
この映画は、日本の若者の抱える問題についての警鐘と希望を描きたかったのかもしれません。
出演者が皆、いい演技をしています。
高校の教師役の板尾創路の位置も重要です。
それは、青春時代を越えて来た証であり、大人の姿でもあるからです。
教師の真っ赤なバイクを借りて絵里を救いに向かう山本。
その姿は、青いバイクの能登とかぶります。
「根性試し」 という行為は、古来からの 「通過儀礼」 になぞらえることが出来ます。
そのバイクでチェーンソー男を倒すシーン。
バイクが黒こげになり、それを教師に返すシーンも良いです。
チェーンソー男が現われるシーンでは、雪が舞い、雪の結晶が見事に綺麗な動きをします。
とても美術に拘りが感じられる映像でした。
戦後65年目を迎えようとしている日本。
主権国家、独立国として再建された国、日本。
今こそ、その豊かな経済を背景にした暮らしの中に抱える問題を見据える必要があるのかも知れませんね。
個が育つために必要なのは、経済だけでは有りません。
そこに必要とされるのは、誇りだと思います。
生きているだけで尊いという誇りを持たねば生きることが苦痛になるかも知れません。
そして、鬱になる人間も増えていくかもしれません。
鬱という言葉は、鬱蒼(うっそう)としたという言葉にもあるように、本来は盛んな様子を表わす言葉です。
その勢いを妨げているから鬱となるとも言われています。
ならば、本来の勢いを妨げているのは何でしょうか。
考えてみるのも面白いと思います。
それにしても… 市原隼人は良いですね。
でもって、浅利陽介は、巧いです。
関めぐみは、素敵でした。
そして、もちろん、三浦春馬は、オトコマエでした。
<あらすじ>
賄い付きの寮で暮らす高校生の山本(市原隼人)と渡辺(浅利陽介 )。
逃げない男、能登(三浦春馬)と3人で「俺さまーズ」 というバンドをやっていたが、
能登がバイク事故で呆気なく死んだことで、死が身近なものとなる。
能登が、(逃げない根性ある)エンディングを果たしたからだ。
だから、山本は、能登を越える 「最高のエンディング」 探しで焦っていた。
どう死ぬか。
「愛する彼女のために死ぬ」 それが能登を越えた死だと信じたい山本。
どう生きるか。
自分の才能が発揮出来る場所があると信じて奔走する渡辺。
雪崎絵理(関めぐみ)は、呆気なく死んでしまった家族の死を受け入れることが出来ないでいた。
死をどう乗り越えるか。
すると、突然雪とともに現われたチェーンソー男。
絵里は、彼を倒すことで、家族の死を乗り越えられると信じた。
永遠のライバル能登。能登の声、「根性なし!」 の声が山本につきまとう。
彼は逃げない男だった。逃げずに(恐怖に)立ち向かい、そして死んだのだ。
それは、根性試しのような走行の果ての死だった。
自分は根性なしだと思い込むことで現実から逃げたい山本。
先を越された(先に死なれた)焦燥感と喪失感が山本を苦しめる。
思春期真っ只中の高校生が死に直面することで恋愛を超えた体験を共有する。
山本と理恵は、チェーンソー男を倒すために力を合せることで愛(生きること)に目覚めていく。
果たして、チェーンソー男とは何者なのか…
現実なのか幻なのか…
この映画は、若者の焦燥感を描いた映画です。
何をしていいのか、何が出来るのか自分でも分からず、
特別な存在でありたいけれど、平凡な生活に埋没するしかない若者を描いています。
求められ、誰かにとって無くてはならない存在となったとき、自分の存在が生きて来ます。
それが絵里にとっては山本の存在であり、
山本にとっては絵里の存在でした。
チェーンソーで切られようとしていたのは、死への恐怖であり、生への恐怖だと思います。
2人は、チェーンソー男を倒すことで(生きる)根性を持つことが出来たのかもしれません。
なんとなく生きている日常。
便利な世の中。平和な世の中。衣食住に困らない豊かな暮らし。
それらが実態としての自分と結びつかないという焦燥感は、
生への執着を薄れさせ、死への恐怖さえ薄れさせてしまいます。
この映画は、日本の若者の抱える問題についての警鐘と希望を描きたかったのかもしれません。
出演者が皆、いい演技をしています。
高校の教師役の板尾創路の位置も重要です。
それは、青春時代を越えて来た証であり、大人の姿でもあるからです。
教師の真っ赤なバイクを借りて絵里を救いに向かう山本。
その姿は、青いバイクの能登とかぶります。
「根性試し」 という行為は、古来からの 「通過儀礼」 になぞらえることが出来ます。
そのバイクでチェーンソー男を倒すシーン。
バイクが黒こげになり、それを教師に返すシーンも良いです。
チェーンソー男が現われるシーンでは、雪が舞い、雪の結晶が見事に綺麗な動きをします。
とても美術に拘りが感じられる映像でした。
戦後65年目を迎えようとしている日本。
主権国家、独立国として再建された国、日本。
今こそ、その豊かな経済を背景にした暮らしの中に抱える問題を見据える必要があるのかも知れませんね。
個が育つために必要なのは、経済だけでは有りません。
そこに必要とされるのは、誇りだと思います。
生きているだけで尊いという誇りを持たねば生きることが苦痛になるかも知れません。
そして、鬱になる人間も増えていくかもしれません。
鬱という言葉は、鬱蒼(うっそう)としたという言葉にもあるように、本来は盛んな様子を表わす言葉です。
その勢いを妨げているから鬱となるとも言われています。
ならば、本来の勢いを妨げているのは何でしょうか。
考えてみるのも面白いと思います。
それにしても… 市原隼人は良いですね。
でもって、浅利陽介は、巧いです。
関めぐみは、素敵でした。
そして、もちろん、三浦春馬は、オトコマエでした。
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